800年の歴史に、新しい朝が来た。
今年も、2月17日から20日までの4日間、八戸市中心街で「八戸えんぶり」が行なわれました。
昔々そのまた昔に、酒の勢いで刀を抜いて争い始めた南部光行の家来たちの前に藤九郎という男があらわれ、農具を使って踊り、おさめた・・・なんていうことがきっかけで始まったお祭りです。
およそ800年前の歴史があるというこのえんぶり。
すぐそばふるさとでは、今年も八戸えんぶりの様子をレポートしていきます!
今日は、いつもとちょっと違う雰囲気の写真をお届けします。
え ん ぶ り 前 夜
八戸えんぶり前夜、長者山は賑やかに朝を待ちます。
閉ざされた長者山神羅神社を前に、駐車場に早くも集まったいくつものえんぶり組が、かがり火を囲んで、酒を交わし、お囃子を鳴らしながら朝を待ちます。
「明日」の朝、この道を通って奉納が行われ、八戸えんぶりが開幕します。
2月17日、深夜0時。
深夜0時、日付が変わりました。
いよいよ、烏帽子をかぶった太夫たちの姿が見られるようになります。
日付が変わったのと同時に、鳥居の前で仮審査が行われます。
長者山に一番最初に到着したえんぶり組には「一番札」が与えられますが、午前0時の時点でえんぶりの衣装がしっかりとなされているかの審査が行われます。
えんぶり組の人たちが鳥居の前に並び、宮司さん同席のもとで審査が行われます。
この時点でOKが出れば、並んだ順番に鳥居の横にその組の旗が置かれ、午前7時の奉納を待つことになります。
審査の後も語らいは続きます・・・・。
神様への奉納はもちろんですが、忘れてはならないある人物がいます。
差し込む朝日の中、殆どのえんぶり組がある石碑にそれはそれは深々とお辞儀をします。
大沢多門です。
明治維新後に始まった「門付」と称した活動は「いかがわしい」として、えんぶりは禁止されることとなります。
明治14年(1881年)、当時の有力者大沢多門が、それならばえんぶりを長者山に奉納する「豊年祭」と銘打って再開させようと尽力し、この地方にえんぶりが復活したとされています。
この出来事から、八戸えんぶりは絶えることなく続いてきたそうです。
長者山神羅神社には、大沢多門を讃える石碑があり、殆どのえんぶり組が大沢多門に深々とお辞儀をして中心街での「一斉摺り」に向かっていきます。
21世紀、デジタル時代の今でも、当時の人々へに深く深く感謝する、八戸えんぶりで最も印象深く、素晴らしい瞬間です。
さあ、800年の歴史に新しい朝がきました。
八戸えんぶりの開幕です。
えんぶり特集
いよいよ、烏帽子をかぶった太夫たちの姿が見られるようになります。
日付が変わったのと同時に、鳥居の前で仮審査が行われます。
長者山に一番最初に到着したえんぶり組には「一番札」が与えられますが、午前0時の時点でえんぶりの衣装がしっかりとなされているかの審査が行われます。
えんぶり組の人たちが鳥居の前に並び、宮司さん同席のもとで審査が行われます。
この時点でOKが出れば、並んだ順番に鳥居の横にその組の旗が置かれ、午前7時の奉納を待つことになります。
審査の後も語らいは続きます・・・・。
午前7時、奉納。
午前7時前、境内に行くと既にお囃子があちらこちらから聞こえてきます。
そして多くの市民や観光客、報道関係者、写真愛好家・・・・この祭りの開幕を待ちに待った人たちで、境内が埋め尽くされています。
さあ、いよいよ八戸えんぶり、800年の歴史に新しい朝がきました。
すべてのえんぶり組は、長者山新羅神社の神様に奉納し、長者山ふもとのまつりんぐ広場へと向かいます。
差し込む朝日の中、殆どのえんぶり組がある石碑にそれはそれは深々とお辞儀をします。
大沢多門です。
明治維新後に始まった「門付」と称した活動は「いかがわしい」として、えんぶりは禁止されることとなります。
明治14年(1881年)、当時の有力者大沢多門が、それならばえんぶりを長者山に奉納する「豊年祭」と銘打って再開させようと尽力し、この地方にえんぶりが復活したとされています。
この出来事から、八戸えんぶりは絶えることなく続いてきたそうです。
長者山神羅神社には、大沢多門を讃える石碑があり、殆どのえんぶり組が大沢多門に深々とお辞儀をして中心街での「一斉摺り」に向かっていきます。
21世紀、デジタル時代の今でも、当時の人々へに深く深く感謝する、八戸えんぶりで最も印象深く、素晴らしい瞬間です。
さあ、800年の歴史に新しい朝がきました。
八戸えんぶりの開幕です。
えんぶり特集
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