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2021年10月22日金曜日

青森県の「新蕎麦」に伝わる怖い話。階上早生誕生の裏で何が?


新蕎麦の季節がやってきました。八戸市の蕎麦の産地、南郷地区では、10月17日から新蕎麦の提供が始まっています。道の駅なんごう、山の楽校、朝もやの館で南郷産の階上早生の新蕎麦が食べられます。
そして、階上町では、10月23日から新蕎麦の提供を開始。わっせ交流センター、道の駅はしかみ、フォレストピア階上で、美味しい新蕎麦が食べられます。旬のお蕎麦を食べて、季節を感じるのも、いいですね。

青森県南地方で生産されているお蕎麦は「階上早生(はしかみわせ)」という品種です。
冷たいヤマセの影響でお米がとれずに苦しんだ南部八戸の人々にとって、蕎麦は救いの存在でもあったようです。
今回は、青森自慢のお蕎麦「階上早生」の歴史と、南部に伝わるお蕎麦に関するちょっと怖い昔話をご紹介します。

南部の蕎麦に伝わる怖い話・・・
階上町を中心に栽培されている「階上早生」は青森県を代表する蕎麦の品種。
青森県で唯一の蕎麦の「奨励品種」に指定されています。



このお蕎麦、南部の昔話「南部昔コ(なんぶむかしこ)」では、ちょっと怖い話があります。
正部家種康著「みちのく南部八百年 地の巻」に「ソバと山鳩の話」という昔話が載っていました。抜粋してご紹介します。


昔、農業が大変な不作に見舞われた時のこと。
農家の父親が、急いで蕎麦を蒔くことにした。
蕎麦は冷たい風にも強いので、きっとたくさん収穫できるだろうと思ったからだ。

父親は、山の荒れた畑をきれいに耕し、せっせと蕎麦を蒔いた。
その息子は、父親に香煎(こうせん)を持っていくことにした。

途中、川で魚を見つけ、香煎を投げてやると、魚が寄ってきて嬉しそうに食べた。
面白いので、どんどんと投げていると、気がつけば香煎を全て使い果たしてしまった。

息子は泣きながら父親の畑へ向かうと、父親は蕎麦の種を撒いている途中に、疲れ果てて死んでしまっていた。

それを見た息子は、わんわんと泣きながら「デデ、コッケエ!(父さん、香煎を食え)」と叫ぶ。
※デデ:南部弁で「父さん」 ※コ:粉のこと。ここでは「香煎」 ※ケエ:食え

それでも父は生き返らず、、、、息子も、叫びすぎたせいか、栄養失調だったせいか、血を吐いて死んでしまった。

それを悲しんだ母親は、涙を流しながら蕎麦の種を蒔いた。
育った蕎麦の茎は息子の血の色で赤く、それを見た山鳩がよってきて、鳴き始めた。

「デデ、コッケエ。デデ、コッケエ。」

山鳩は、頭を下げながら「デデ、コッケエ」と泣く。
この山鳩が、息子が父に謝り続けている姿だという・・・。




青森県の人々が逆境から見出した
青森県自慢の「階上早生」
階上早生の歴史は深く、大正時代にまで遡ります。

八戸市史通史編3によれば、大正2年、青森県では大変な冷害がありました。天候不順によって、青森県全体の稲の収穫量は平年の2割という大変な状況。そのほかの農作物も、平年の5割ほどまで落ち込んだそうです。



秋の収穫期には、三戸、上北、下北などの南部と、平内や蓬田、外ヶ浜などの東津軽では、米の籾(もみ)さえ収穫できない状況。

生産額は前年比9割減にも及び、農民の生活を苦しめました。
加えて、八戸では、漁業も不漁に見舞われ、大変な食糧難で、草の根っこや木の皮で食い繋いだという話もあります。

そういう中で、南部階上の蕎麦は一定の収穫量があったそうで、人々を救ったようです。大正4年には、青森県農業試験場がこのタネなどを取り寄せて調査を行いました。そして、大正7年、痩せた土地でも丈夫に育つこの蕎麦の品種には「階上早生」と名前がつけられます。


この階上早生は、青森県で唯一の蕎麦の奨励品種に指定され、いまでは、八戸市の南郷地区や、ご当地階上町で年間を通して多くの人が食しています。
そして令和の時代の今でも、青森県で唯一の奨励品種です。


大正時代から100年以上にわたって南部の人々の生活を支えてきた階上早生。
正部家先生の本に出てきた怖い話「ソバと山鳩」は、それだけ昔の南部の気候は厳しく、蕎麦に僅かな望みを託したということなのでしょう。階上町では、平成25年には「階上早生階上そば」という名前で商標登録され、地元の方々が、階上の蕎麦作りの伝統を受け継いでいます。青森県で唯一の宝を、これからも守っていきたいですね。


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